一人遊び、たいたいのお気に入り(楽しかったかなあ)

たいたいが、周りの子と違うと感じたのは、やはり集団生活である保育園。
いつもひとり、部屋の隅っこの方で、みんなと違った行動をとっていた。
だからといって、とりわけ、集中できるものがあるわけではなく、しいて言えば絵本。
それも、決まったもので、それをペラペラとめくったり、破いたり、なめたりしているだけである。
おかげで、我が家の絵本はつねにふにゃふにゃ、べとべと、びりびりであり、部屋中、絵本の切れ端はちらばっている。
そういえば、何度か保育園にも本を寄付した。弁償してくださいとはいわれなかったが、たいたいが、使った本は使い物にならない。
あまりにも申し訳なかったからである。本に限らず、たいたいの手に掛ればなんでも消耗がはやい=お金のかかる子である。
そんなことはよいとして、なにが楽しいのか理解できないこっちとしては、「そればかりじゃなくて、こっちも読んだら?」
「このおもちゃで遊んだら?」と、人並みの親のように、たいたいのワールドの中にいつも土足で侵入した。
しかし、たいたいには通用せず。いつまでもいつまでも、同じことばかり繰り返していた。
そのころ、おろかな私たち夫婦はそれこそ妙な競争?をしていた。
夫:「ママが買ってくるものは、3秒だね。」「パパが買ってきた本は2日も読んだよ」
事実、私が買うものはちょっと触れてそのままぽいっ。ってのがほとんどであった。私でなくともそうなのだが、たいたいのお気に入り探しに関してはややパパの勝ちが多かった。それはそれでよくって、腹黒い私は「そうだねえ、パパの買ったものは気に入ってるね」「たいたいは、パパと1日遊んだ日は落ち着いているねえ」とか、短絡的な夫をおだておだてまくっていた。そうすることで自分が楽をするというずるい手段を習得していた。
買って間もなく、甥っ子、姪っ子行きなってしまった、おもちゃたちの行方はどうでもいいとして、親としては、徐々にたいたいの行動に不安を感じずにはいられなくなってきた。
当時、私がお世話になっていた、教育学の教授に相談したら
「すばらしい息子さんじゃないですか。ひとつの本をずっと見てられるなんて。本を見ながら、想像?空想の世界にはいいているんですよ。」そうかあ。目からうろこでした。そのとき、たいたいの中では空想のどんな世界にはいっていたのだろうか。だれにもわからないことであるが、ある意味これも、だれもかれもができる技ではない。
「たいたい!もしかして天才!!」いや、この言葉だけはめておこう。いままで何度か親ばかで期待してみたが、いまだになんの才能を発揮する兆候はないのだから。
しかし、たいたいの行動が奇妙なのは言うまでもないが、むしろ、たいたいひとりしか育てたことのない私にとって、わずか3,4歳の子が先生の指示に従って一斉に同じ行動ができる事が不思議と感じてしまうのは変だろうか。ほとんど本能にさからわなく生きているたいたいは、紙芝居をはじめますといっても知らん顔。勝手に好きなことしてるし、1分たりとも紙芝居を座って見るなんてことありえない。しかし、30人の子たちは一斉に先生の方を向いてみてるんですよね。これも子供の社会性というものだろうか。我が子の視点で見た、やや親ばか的な考えになってしまいましたが。。