小学校時代(選択、きらら)

{選択}
いよいよ小学校。
たいたいの学校選びは、近所の小学校の特別学級のするか、養護学校(今の特別支援学校)にするかの選択だった。
入学の数カ月前、近所の小学校の教頭先生から、お話をいただく機会があり、夫婦で聴きに行った。
教頭先生のお子さんは障害をもっていたが、当時、両親とも教員をしていたため、プライドがあり、その教頭先生のお子さんは普通の小学校に入学したらしい。
しかし、5年生ころにいじめに合ったりして、結局中学は養護学校に入学されたとのことでした。
先生は養護学校にいれてよかった。子供の学校を選ぶときは絶対に親の見栄は捨てたほうがよいと、自分の過去を後悔され、私たちにアドバイスをしてくださった。
無論、6年間たいたいを見てきて、私たち夫婦は見栄をはろうなんて気はさらさらなく、迷う余地もなく、養護学校へたいたいを入学させることに決めた。
どんなランドセルにするか迷うこともなく、新しい鉛筆、筆箱を買いに行くこともなく、6歳の小さな体が隠れそうなほど、大きなリックサックに着替えのみを入れて、通う小学校生活が始まった。
学校まではスクールバスで、バス停までは30分以上、1年生の時から毎日歩いた。
同じバス停には、いろいろな障害を持った子たちがいた。
自分よりはるかに大きな体をした男の子と手を組んでくるお母さん。しょっちゅう発作を起こす子など様々で、その中でたいたいは、さして特別な子ではないように感じられた。バス停では、「昨日、こんなことがあって」なんて、様々な障害児たちのエピソード話が笑い話のように繰り広げられた。
新入りのたいたいの行動を、バス停のお母さんたちは、ごくごく自然に受け入れ、たいたいへの対応も実にスムーズであった。
母としての世界が変わった。
「うちなんて、たいちゃんくらいのころはもっと多動で落ち着かなくて・・」
「しょっちゅう、2階の窓から、飛び出しそうで・・」
な〜んだ。うちのたいたいだけじゃないんだ。へ〜○○君そんなこともするの?
でも、今、中学になり、ちゃんと落ち着いてバスをまっていらあれるじゃないか。たいたいもそうなってくれるかな。
障害児の母親同志の会話にどれだけ私は助けられたか。
強いお母さんたあちであった。

{きらら}
たいたいの小学校生活のメインはきららといってよいほど、きららにはお世話になった。
きららは、障害児の放課後クラブで、私が仕事を持っていたので、平日の放課後はほとんど毎日、夏休みなどもよくきららを利用させてもらった。
たいたいは1年生から、一番頻度も多く、お迎えもいつも一番最後だあった。そのため、自分から、指導員さんによく、すりすりとよって甘えることを徐々に体得していったと思う。でも、みんながお迎えにくる中、よくがんばって泣きながらも我慢していたなあ。
私は、自分以上に、たいたいの行動を理解しているきららの指導員さんをすっかり、信頼し、思い切りたいたいを預けまくっていたと思う。
今思うと、傍からみたら、あんなに手の掛る子を毎日預けて・・と思われていたかもしれない。
たいたいは、毎日もっとママと一緒にいたかったか、きららで指導員さんや友達といる方が楽しかったかわからない。
でも、あの頃、放課後や休日すべてを母親が見るのは不可能だったと思う。
安全な集団生活できたことに、本当に感謝。何人の人にお世話になり、かわいがられたか。
そして、夏の流しそうめんもスイカ割りもママだけではできないし。
いろんなところにもお出かけできたし、そうそう、たいたいの大好きな調理実習??足で小麦粉をふんで、うどんつくったり、
あげたら、数え切れないくらいいろいろな体験をさせてもらいました。
きららのお母さんたちとも、交流ができて、なんともお互いに世界が広がりました。
その中でも、つねにマイペースのたいたいだったけどね。
たいたいを育ててくれたきらら、そして指導員さん、感謝!感謝です。

障害児の世界??養護学校の先生やレスパイトの職員、お母さんたちなど、ママはたいたいのおかげですごーく貴重な出会いを体験できました。